写真は、新潟近郊の汽水地域の博物館で見た「葦船」。
カヌーなどに比べて大型の船が造作しやすかったことから、
環日本海地域での地域間交易に使われただろうと推定できます。
同様の環日本海地域北方の汽水湖地域・北海道オトンルイ遺跡などを見ても
古代の人々は、いくつもの船、通常使用の自家用車的なカヌーから
外洋航海用の大型船まで、自在に海の道を使って漁をしたり
交易をしたりしていたに違いないと推定されています。
その外洋航海用の大型船として、このような「葦船」が利用されたと思われる。
でも、その復元はここではじめて見た次第。
以下、カムナ葦船プロジェクト〜太古の智慧をつなぐ旅〜という
WEBサイトからの要旨抜粋。
葦船なら今も昔も同じ方法で大型の船を作ることが可能です。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダール博士による、
「葦船ラー Ⅱ号」(1970)での大西洋横断、
「ティグリス号」(1978)によるティグリス川から
エジプトまでの航海をはじめ、
スペインの冒険家キティン・ムニョス氏による、
「ウル号」(1986)、「マタランギ Ⅱ号」(1999)の航海から、
葦船が大陸間の航海に十分耐えうるものであり、
古代において民族や文化交流の手段になっていたのではないか?
という可能性が既に示されています。
世界の人類学では、南北両アメリカ大陸の先住民は、
ベーリング海峡以外の移住ルートでも渡った事がほぼ確実とされ、
その多くは日本の縄文人やアイヌ民族ではないかとされています。
植物分類学では、多くの野菜や植物が古代人の移動に伴い
環太平洋各地に分布したとされています。
少なくとも10000年以上前にベネズエラ原産のサツマイモが
ニューギニアで食されていました。
また、縄文時代の土器と同じ模様のものが
中南米やポリネシアからも見つかっています。
10000年から6000年前、
縄文時代の海洋民族が
葦船で太平洋を航海したのではないかと考えられないでしょうか?
学術的な立証には、物的証拠が不可欠ですが、
残念ながら古代の葦船が発掘されることはありません。
なぜならば、植物である葦船は、その役目を終えると土に還る船だからです。
というようなことなのですね。
縄文時代人といえば、環日本海地域のみならず、
むしろ関東や東北、北海道地域が人口も優勢なワケで
そこから外洋へ、大型の葦船でアメリカ大陸を目指して船出するような
そんな人類的経験をかれらが行ったと考えるとクラクラする(笑)。
そうでなくても、
北海道が主要産地である鋭利な刃物として使われた黒曜石が
日本各地に「輸出」されている様子や、活発なものの交易実態が
証し立てられているワケで、その移動手段として
こういった葦船のようなものが役を果たしていたという想像は、蓋然性が高い。
そもそも汽水地域には、葦のような素材は普遍的に存在する。
先日も書いたように、日本列島は、海洋に対して水郷的な汽水地域が
関東などをはじめ、まさに列島を覆うように存在していたに違いない。
現代のわたしたちがすでに忘却してしまったけれど、
しかし容易に復元可能な、DNAに刷り込まれた想像力の方向性を
こんな葦船に強く感じていた次第であります。
現代のわたしたちよりも、むしろずっと自由に生きていたのではないか・・・、
ふと、重低音のようなそんな思いがよぎったりする。
Posted on 7月 18th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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